昭和50年01月07日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、我が心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
二代金光様、四神様の御教えの中に「信心せよと言うと、すぐ拝みだしますわい」と言うお言葉があります。「信心せよと言うと、すぐ拝みだしますわい」と。拝むと言う事だけが、信心じゃないと言う事ですね。直ぐ拝みだすとこう言う。先ず拝む事も信心ですけれども、本当の信心を教えようとなさっておられる。又二代金光様所謂、四神様の同じ御教えの中に、「大海には鯨が棲もうが」と。ね。「竹の筒にはぼうふらが湧く」と仰る。竹の筒の中に水が溜まっておる。ね。
それにはぼうふり位の物しか湧かんと。大きなおかげを頂く為には、大海の様な信心をせよと教えておられる訳です。だからそういうおかげの受けられる信心とはどう言う信心かと。所謂拝んだからと言う位、祈念力位で現れるおかげと言う物は、大した事はないと。所謂無尽蔵限りない天地のお恵みに浴するという、そう言う信心じゃなからなければならない。信心せよ信心とは我が心が神に向こうと言う事はどう言う事か。
玉水の(いずは?)先生の、お話の中に「人の懐をあてにするな、神の懐に手を差し込ませて貰う様な信心をせよ」と。天地の親神様の懐というのは、もう限りが無いと言うのです。例えばこりゃまぁ商売に対するものでしょうね。人の懐を当てにしてまっ商売をする。まっそういう意味の事でしょう。所謂天地の親神様の懐と言う物は、もう限りないのだと。ほんなら天地の親神様の限りないおかげに触れて行くと言う事は、どう言う信心をさせて頂いたら良いのか。
勿論私共が信のおかげ、言わばそういう限りないおかげを頂いてこそ又、限りないおかげの頂けれる様な信心を頂いてこそ、光りと言う事が言えると思うです。どんなに天地の親神様が、言わばカンテラの中に一杯の油がある程しの、例えばおかげを蓄えておられてもです。氏子に信なければ火は灯らない。火が灯らなければ、世界は闇と。世界を輝きに世界を光りの世界にする信心とは、どう言う様な信心かと。
生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものあらゆる事その事が、解らせて貰う為にはどういう信心をさせて頂いたら良いか。ね。私はそのありとしあらゆるものその事が有難いと合掌して受けられる、和の心を以って受けられる。一切の事柄と和を持って結ぶ事が出来る。そこから初めて良いものが生まれてくると思うです。ね。男女が仲ようしなければ良いものが生まれない様に、ね。私共があらゆる物と和を持って結ばれる時に、そこから是は絶対の物が生まれて来る。
しかもそれは限りがない物である。私は信のおかげというのはそう言う物だと思う。ね。昨日上野先生が、此処でお届けを致しました。二三日前に北野が里で御座いますから里の方で、それも毎年何日が御節と決めてある訳ではないけれども、兄弟が思わずその日に集まった。そこで来てない、ま、あっちこっちの兄弟にも電話を掛けてみな集まった。たまたま善導寺の原さん、所謂原さんの娘さんが上野さんの奥さんになってある。ですから、善導寺の原さんも行き合わせておられた。
それでもう今日はもう、ほんなら正月の印をしよう、御節を今日はしようと言うので、兄弟も皆集まって、まぁ賑やかに正月の印をされたと言う事を、明くる日善導寺の原さんがお参りをして、上野先生にお届けをした。昨日はもう思わぬ、あちらの兄弟もみな寄られて、私も行っとったから、もう思わず信心話になって、おかげで合楽示現活動が出来たという話を、もうそれこそ迂闊ーつにして話した。
私もそれを聞いた時にですね、聞いた瞬間に、あらこら上野さんが腹かくこっじゃろと思うた。上野さんには知らせとらんから。こら私が人間心でそう思うたんです。そしたらやっぱ、案の定やっぱり顔色が変わった。ね。一番姉さんである所の、上野さんに通知をしてない。ね。本当いうなら原さん辺りなら、気の利いた方がおられるのだから、ね。愛子先生に、是は電話したらどうじゃろかと。
思い付かなきゃならんのだけれど、又ほんならあちらの主人の上野俊夫さん自身もです、ほんならこら合楽に電話か来ると、あの姉さんが来るともう、みんな揃う事になるきんと、まぁ思い付かなきゃならん所を、実際は悪意でも何でもないけれども、ころっと忘れとった訳です。それを又明くる日ころっとそれこそ、そげな事は全然もう昨日のあんまり雰囲気が良かったもんじゃけん、その雰囲気を喜んでもらおうと思うて、上野先生にお届けをしたら、上野先生の顔色が変わった。
勿論、勿論というが、まぁ変わった訳です。姉である私には一言も通知なし、私にはどうして電話かけて来れじゃったじゃろかという訳なのです。けれどもね昨日、一日の事をじーっと上野先生が思いよったらですね。昨日は合楽がもう、私もでしたけれども、あれは何かだったでしょうか。あの正月の事ではありますし、上野先生がおらなければ、お広前が困る様な事ばっかりだった訳です。
そこでほっと気が付いた訳ですね。ね。はぁ神様が弟の所謂善導寺の原さん辺りに、思い付かせて下さらなかったと思うたと言うのです。ね。して見ると通知受けとら、やっぱり親先生に言う。親先生は忙しかったけど、そんなら行けと言いなさるに違いはない。そうすると昨日の有難い御用が出来なかったのだけれども、ね。気が付かなかった。忘れておった。忘れさせておって下さったんだ。気付かせて下さらなかったんだと。はぁ昨日はおかげだったと思うたと言うのです。
こう言う様な事で腹を立ててはならん。言わばむしろお礼ば申し上げんならん様な事に腹立てておったり、顔色変えたりしておる様な事が幾らもあろうが。何時ぞや頂いたそれこそ、「白露をこぼさぬ秋のうねりかな」上野先生是があんたの信心の掛け守りというて頂いた事があるが、本当に危うく白露をこぼす所であった。危うく秋の実りが頂けない事であった。気付かせて頂いて良かったというお届けを昨日致しました。
「先生そうじゃんのう」ち。もう本当にお礼ば申し上げねばならない事にです。ね。お礼申し上げるじゃない顔色変えて、私は姉を姉とも思うておらんと言った様な事で、腹かいておった、過去の事を思うてです。相すまん生活であった事を、改めて気付かせて貰うたと言うのです。見事にもう普通から言うなら、私が聞いとってもです。はぁこら上野先生の顔色が変わっとろ。又先生が腹かいとろと、私は原さんのその話を聞いてから思うたです、私は実際そしたら、所謂案の定であった。
けれどもそう言う時にです、直ぐ信心に取り戻させて貰うと言う事。ね。ましてほんなら、昨日一日の事を思うたら、私が御用に使うて頂かなければならない一日であったし。電話でも掛けて来ておればお届けをする。お届けをすりゃ先生が、「そら行かじゃこて」というてやりなさるに違いはなかったが、本当にね。気付かんでおって、ね。言わば悪く言うならば、ないがしろにされておる事、その事自体が実を言うたら、御働きだと言う事が解った。あるとしあらゆる事をね。
それが神様の御働きであると、頂き解ると言う事がです。私は信心せよ、信心とは我が心が神に向こうと言う事だと。そう言う事が神に向かうことなんです。ぽっと神に向こうたら。腹たてとる段じゃない、お礼の申し上げねばならない事であると言う事なんです。信心とは、我が心が神に向こうた訳なんです。ね。大海には鯨が棲む。お互いが鯨の棲む様な大きなおかげを頂きたい。そういう大きなおかげを願っておって、心は竹の筒に水が溜まっておる様な心の状態では、大きなおかげは頂けるはずがない。
頂いとっても、頂いたとてもです。ぼうふり位なおかげである。ね。それには先ずは私共が、大海の様な心の状態にならなければならない。その大海の様な心、唯私が馬鹿になっとりゃいい。私がもう唯大きゅうなりさえすりゃ良いというだけでは解らん。ね。ありとしあらゆる事柄も、あらゆる物もです。一切が神様の御働きであり御物であり、と言う風にそこが実際分からせて頂く時にです。そういう体験を伴うて頂いて行く時に、もうお礼を申し上げる事以外にはないという。
そこに和を持って一切と結ばれる。其処から絶対の物が生まれるのだ。是はもう予想もしないおかげが生まれるのですね。夢の様なおかげと言うけれどもです。それこそ夢の様なおかげじゃない。夢にも思わなかった程しのおかげの展開が、そこから開けて来るのです。それを私は神様の懐に手を入れた信心だと思うです。唯こうありたいこうして下さいというて、ね。言うのはそれは、ね。商売人がね。お客さんの懐を目当てに商売しておる様な、小さい考え方だと思うです。
よしそれが成就してもそれはぼうふり位なおかげだと言う事です。どんなにカンテラに油が一杯あってもです。ね。火が灯らない芯がなければ火が灯らないというのは、愈々ね神様の信を和賀心、所謂自分の信とさせて頂いた時、神様の思いが自分の心にそのまま通うて来る時。ね。腹は普通で言うならば立てるのが本当だと言う様な事の中にでも、お礼の言えれる心が生まれて来る。そこから絶対と言う物が生まれて来る。
昨日は親先生、おかげ頂いてから、こういう素晴らしい着物をお供え頂いた。早速おかげが現れた。親先生はおかげ頂いて、まぁ衣食住というが、非常に着物にその恵まれておるです。皆んなあっちこっちから、お供えを頂いておる。それこそ布一寸買わんなりに、まぁおかげを頂くと言う様なおかげを受けておる。昨日も例えばそう言う様な事のあった、本当いうならば腹の立つ様な、腹を立てるのが当たり前と思う様な事柄の中にでも、それを神様の御働きと受け止めた。
そこに返ってお礼を言わなければならん。例え一時であっても顔色が変わった位な事でも、まだまだと自分にも、大いにま、反省させて頂いたと言う訳なんです。ね。そう言う心がです。愈々自分の周囲を明るくするのです。話をしたあら何か気に添わじゃったばいな顔色が変わった。もうそこを真っ暗にしてしまうんです。こげな事言うたら腹かかっしゃろと思う様な事であっても、腹かく段じゃないお礼を言う心。そういう心こそがその場に光りを灯す様な物です。ね。
そう言う光が愈々光琳の言わば輪が広がりに広がって行くと言う事なんです。ね。合楽示現活動というのは、そう言うね。光りから光りの輪を、大きくして行く事なんです。ね。私共が不平不足をいうてはならん、思うてもならない。いやむしろお礼を言わねばならない様な事柄に、不平不足を言うておる様な事で、そして良い物が生まれる。どうぞおかげをと言うても、それは本当の事ではない。よし現れたに致しましても、それはぼうふり位なおかげです。
愈々お互いが、鯨の棲む様なおかげを頂きたいならば、愈々豊かな大きな心。それには先ず我が心が、ね。信心とは我が心が神に向こうのをという、神に向わなければならない。心が神に向こうた時瞬間に、今まで腹立ちであった心は、有難いという感謝の心に変わって行く。それが神に向こうというのはそう言う事だと。「信心せよというとすぐ拝みだしますわい」と、四神様が仰せられる。唯拝む事だけが信心ではない。そう言う例えば、私が申します様な心の状態を持って神に向う言うなら。
御祈念をする拝みだすと言う事にならなければ、本当の信心じゃないという事であります。先ず自分の心の中に火が灯らなければならない。家庭の中に火が灯らなければならない。その人がおる限り、その場が明るうなる程しのおかげを頂く為に、愈々我が心が神に向かわなければならない。我が心が神に向こうと言う事は、拝みだすと言う事ではなくて、ね。ありとしあらゆる物の中に、ね。御神意があり神様のお恵みが潜んでおると言う事を解らせて頂くと言う事なんです。
どうぞ。